【外伝】きかんし印刷と高校新聞

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戦後、高校新聞創刊が相次ぐ

 
戦後多く高校で高校新聞が創刊が相次ぎます※1。それは学校のお知らせを伝える広報紙や生徒会の宣伝紙でもなくて学生ジャーナリズムとして、学生が取材し記事を書き、割付して新聞を発行するという活動でした。それらは新聞部ではなく外局として独立性を保っていたことに現れているように思います。今でも多く学校で名称を「新聞局」としているのはその名残なのでしょう。
㊧1950年に創刊された小樽千秋高校の紙面、きかんし印刷で印刷した模様㊤きかんし印刷が出版した「北海道高校新聞紙」上巻=武石文人著

1947年 北海道機関紙印刷所 創立

一方、北海道機関紙印刷所は、その名の通り新聞印刷を得意とする印刷会社として1947年に小樽で創立※2。1950年に札幌に移転して操業開始しました。まだ鉛の活字を使っている時代。きかんし印刷は新聞社以外では珍しく新聞専用の活字を保有していたことで、業界新聞、団体新聞など多くの新聞印刷をしていました。その中で高校新聞も多くの学校からお仕事をいただいていたのです。

60年代 来社校正でにぎわう

きかんし印刷は2014年まで社屋が札幌駅の近くにありました※3。交通アクセスが便利ということもあって、放課後に校正に来社される学生が多くいました。校正室では学生間の交流もあったようです。地方の学校からもお仕事をいただいていました。たとえば朝に網走を出発して午後に札幌に到着。来社校正して夜行列車で帰るーということもあり、列車の時刻に合わせて校正を見られるように対応していました。

70年代 「高校生のための編集のしおり」を提供

1970年代には記事の書き方、見出しの付け方、割付の手順、入稿のルールなどをまとめた「高校生のための編集のしおり」を作成して希望する学校に無料で提供していました。新聞局員の間ではバイブルと呼んでいたと聞いたことがあります。長く品切れでしたが2015年に新社屋に移転し生産システムが更新されたことを機会に「編集のしおり」※4を復刊しました。

 
◀2015年に復刊した「高校生のための 新聞づくりハンドブック」オンデマンド印刷で希望校に配布中です
※連絡先■アドレスなど■要検討

80年代 全道43校の新聞を印刷

1981年の高文連コンクールに参加した紙面を収録した縮刷版を調べてみると、活版部門に参加した94校のうち、きかんし印刷で印刷した新聞は43校もありました。今見ても驚きの数ですが、確かに7月はめちゃくちゃ忙しかった記憶があります。また来社校正も校正室や会議室では足りなくて近くにあった「泉屋別館」※5という旅館の部屋を借りて校正する場所を提供していました。
1979年の函館で行われた全道高校新聞研究会のしおり

80年代 活字からオフセットへ移行

1980年代に入ると組版は鉛の活字※6から写植へ、印刷もオフセット印刷と移行されます。きかんし印刷は札幌市内でも早い時期に活字を全廃してオフセット化を実施しました。これらの印刷システムは高温で活字を作る「ホット方式」に対して、紙で作るため熱くない版下制作を「コールド方式」といい、コールドタイプシステム(略称=CTS)と呼ばれるようになりました。

80年代 電算写植導入、効率的に多くの新聞制作

 
CTSでは手動写植機が主力でした。しかし一文字づつオペレーターが打ち込んでいくため効率があがらず、のちにコンピュータと写植機を連結させた電算写植機※7が登場します。きかんし印刷では1980年の活字全廃と同時に電算写植機を導入。新聞専用書体も採用、効率的に多くの新聞制作に貢献しました。だから7月に多くの高校新聞が集中しても納品を完全保障することができたのです。
◀記録媒体として使用していた紙テープ。穴の形が文字コードコードとして記録される。右はテープを巻き取る道具

エピローグ 40年以上前のお話ですが・・・

40年以上前のお話ですが新聞局の顧問会議で「きかんし印刷に出すと見栄えの良い新聞が作れる。でも、きかんし印刷に出せない地方の学校には不公平ではないか」※8という旨の発言があったそうです。たいへん名誉なお言葉で、誇りに思っています。ネット環境が整った現在なら全道どこからでもお仕事を受けられます。不平等なんてありません。ぜひお待ちしています!
脚注
※1 「北海道高校新聞史(上)」武石文人著(昭和52年 北海道機関紙印刷所出版企画室 発行)によると昭和20から22年を萌芽期であり、23年ころから札幌、函館、小樽で創刊が相次いだようです。 ※2 小樽で創立したときは「大輝印刷」札幌に移転して「北海道機関紙共同印刷所」になりました。のちに少し短く現在の「北海道機関紙印刷所」となります ※3 札幌市北区北6西7にありました。JRが高架になるまでは札幌駅の跨線橋から社屋が見えました。 ※4 復刊した「編集のしおり」はご希望があればお送りします。 ※5 本館はないけど名前は「別館」となっていました。お世話になりました。 ※6 鉛を溶かして活字をつくる鋳造機という機械が稼働。新聞用のややつぶれた扁平活字を保有していしていたのが大きな特徴でした。 ※7 第2世代と呼ばれるものでFDやUSBメモリなどない時代、記憶媒体は紙テープでした。 ※8 発言されたご当人はすでに故人となられていますが、生前に直接本人からお聞きしたエピソードです。高校時代は新聞局に所属されておられ、きかんし印刷の技術の高さを評価した上でのご発言に胸が熱くなりました。